あなたはどんな時に「死」を意識するでしょうか。
仕事や家事、育児などの日常の中では「死」を直接的に実感する機会は
そうはありません。
TVのニュースで殺人などの事件や事故で人の死を見聞きしますが、どこか他人事で
とても自分にやがて訪れることとは思えないのがこの「死」というものです。
ではこの「死」を自分の事として実感する場面はどんな時でしょうか。
今回はそんな「死」を自分のこととして実感する場面と、そんな時に考えておくべき
3つのことについて考えてみたいと思います。
「死」を身近なこととして実感する2つの場面
①自分が病気になった時または病気と思い込んでいる時
私は死も怖いですが、病気もとっても怖いです。
病気恐怖症かもしれません。
ちょっとした体の痛みや違和感でもすぐに大きな病気を想像し、死を意識します。
こんな時は、早めに病院へ行って検査をし、検査結果までの間はとても心配になり、
生きた心地がしません。
こんな気持ちになる人も多いのではないでしょうか。
大した異常なし、となると死が遠ざかり、気持ちが日常へと戻っていきます。
②身内の葬式や法要に出席した時
先日も、兄の一周忌法要に出席し、お坊さんのお経を聞きながら思うことがたくさん
ありました。
・次にこの遺影の写真になるのは誰か
・兄は今どこにいるのか。あの世から今日だけここに帰ってきているのか
・人が逝くとその行先は生まれる前の世界か
・この世に無理やり押し出され、病気などによってあの世へ無理やり戻される
この世に滞在した時間というのはどんな意味があったのか
このような「死」と「生」に関することをお経の間、兄の遺影を見ながら考えて
いました。
普通に生活しているとあまり考えることの少ない「死」というものを①や②の場面
ではとても身近なこととして考えることが出来る、それはとても貴重で有意義な時間と
いえるのではないでしょうか。
そしてそんな貴重な時だからこそ考えたい、また考えざるを得ない、3つのことについて
書いていきたいと思います。
「死」は怖いですか?「死」が怖い理由とは
上に書いたような場面でまず思うことは「死」はとても怖いものだということです。
これは年を重ねる毎に段々と増しているように思います。
歳を重ねると死が怖くなくなるということを聞いたことがありますが、そんなことは
全然ありません。
私だけでなくほとんどの人が「死」=「怖い」となるのではないでしょうか。
ではなぜ私達はなぜこんなに怖がっているのでしょうか。(私なりの理由)
・残された家族を心配するがゆえに怖い?
・・・自分が死んでも家族はそれなりに逞しく生きていくので大丈夫。
・まだやり残したことがいくつもあるから怖い?
・・・生まれた時からやるべきことややりたいことなどそんなに大したことは
存在しないし、だから今もやり残したことは残されていない。
基本的に人は食べて寝てを繰り返すだけ。その期間が長く残さ
れているか、短くなるか。こんな食って寝てを繰り返すだけなら
いつ死んでもよいのではないか、と思っている。
・体が無くなってしまうことが怖い?
・・・年を重ねると体も痛いところが増え、物忘れも多くなり、新しいことを
記憶できなくなる。そして最終的に死ぬことで体も機能を失う。
痛みや脳機能の低下を考えるとむしろ長生きはつらいことと思える。
・自分の存在がこの世から消えてしまうのが怖い?
・・・自分の存在なんてちっぽけなもの。別にいてもいなくても世界は変わらず
動き続けるし、自分がこの世からいなくなっても全然怖くない。
死んだ人は権威のある人もそうでない人もみな同じ。
・周りの人間の記憶からいなくなるのが怖い?
・・・自分自身は周りの人からすると印象の強い人間でもないし、そもそも人間
関係すら少ない方なので、周りの人から忘れ去られることは怖いと思わない。
どんな人でも早晩忘れ去られてしまうでしょうから。
私を知っている人すらいずれこの世からいなくなるのだから。
・自分という意識が無くなってしまうことが怖い?
・・・自分の意識(魂?)がずっと無くなってしまうとはどういうことなのか。
生まれてから経験したことがに為に、非常に恐ろしく感じる。
今ある現実が消えていく、完全に消滅するとはどういうことなのか、
自分が認識しているものが一切に認識できなくなる。
この理由が一番自分の中で説明できないし、理解しがたく割り切れない。
この理由が死を怖くしている理由の一つと思う。
・死んだあとのことが分からないから怖い?
・・・そしてこの理由。死んだあとはどうなってしまうのか。
誰も知らない世界へ行くこと、未知の恐怖。これ以上怖いものはない。
そもそも死後の世界などはあるのか。持っている肉体は焼かれてしまい
消滅するのはわかっていること。
では魂と言われるものは存在し、肉体が無くなったあとも存在し続けるのか。
仏教でいう極楽浄土(浄土宗)という世界。キリスト教でいう天国という世界・・・
はあるのか。
そもそも死んだら死んだこともわからないので考えてもムダ、という人もいるが。
この理由が最も死を怖くしている理由と考える。
「死」の足音を感じると思う残り人生について
50代も後半になると、20代のように死が存在しないかのような考え方はできない。
常に病気になるリスクを抱えながら、死の足音を感じながら生きていくことになる。
10代20代のように将来に思いを寄せるより、過去を振り返り、わずかに残された
人生を不安に感じながら過ごすことになる。
巷で言われている「年を取った方今が一番楽しい」や「人生100年時代」は薄っぺらく
聞こえてくる。
ずっとこのようなことを考えているわけではないが、ふとした瞬間にこんなことが
頭をよぎる。
刻々と迫りくる人生のタイムリミットに精神的にも追い込まれた中で考える残り人生
とは・・・
何かをやり遂げたいとか、これをしたいから少しでも長生きしたい、というのはなく、
もう死を考えたくない、頭の中から死を追い出したい、こんな事で苦しむのだったら
いっそのこと自ら死を選択した方が良いのではないか、ということ。
死を怖がりながら、その恐怖の為に死を選択する方がよいのでは、という実に不思議な
考えに辿りつくのです。
残り人生について、決して楽しいことを考えているのではない。
しかし、死を選択するという勇気はまだない。
そのタイミングがいつくるかはわからない。
私が考える「死後の世界」とは
前章で死んだあとどうなるかがわからないから死が怖い、と書いたが、死後の世界があるかないか
あったとしたらどんな世界なのか・・・
これまでこのことについてたくさんの書物を読んできたが、科学的に証明されることでもなく、
「臨死体験をした人が見た世界=死後の世界」とも言い切れない。
死ぬ時に出るセロトニンなどの幸せホルモンによってこのような風景(死後の世界)を見る、とも
言われている。
どれを取っても確固たる証拠もなければ、絶対の信頼を寄せることができないことばかりだ。
結局「死」とか「死後の世界」はそれぞれの想像でしかない。
先日の兄の一周忌法要で兄の遺影を眺めながら、こんなことを考えていた。
兄はこの世で生きてきたのと同じように向こうの世界で生きている、
忙しく生きている、今日だけ姿こそないけれどこの世に戻ってきている。
自分たちが一周忌を終えたら、皆それぞれの日常生活に戻っていくように
兄もまた法要を終えたらあの世の生活に戻っていく。
兄もふだんはおそらくこの世のことなど考えることないのだろう、と全く信用に
値しないようなことを想像していた。
そのように思えてならなかった。
結局、この想像こそが自分の中の「死」であり「死後の世界」なのだと思っている。
だからそんなことは人の数だけ存在するとしか思えない。
宗教の世界で考えられている死後の世界を信じるのも、臨死体験を経験しそこでみたものを
死後の世界と確信することは、全く何も信じず、考えずにいるよりは良いと思っている。
自分が信じられることがあるだけで死に臨む時の心構えが違ってくると思うからだ。
まとめ
昔と違いネット社会で多くの情報を手に入れることが出来るので、
自分の死生観を形成する手助けにもなるが、情報が多すぎるあまり
その死生観が時として揺らいでしまい、確固たるものにするのは難しい
側面もあると思います。
長生きすると死が怖くなくなると聞いたことがあります。
自然死、これが死の恐怖を遠ざけるのは一番よいのかもしれません。
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